最近カタカナの使い方をめぐる议论をよく闻く。カタカナは普通、外来语を书く场合に使われるが、ただかっこいいからとか、新鲜な印象を与えるからという理由だけで使う人がいる。それに対して何のことかさっぱりわからないカタカナを使うな、と怒る人がいる。
确かに元々ある日本语で表现できるなら、また翻訳の日本语で十分意味が伝わるなら、わざわざカタカナを使うことはないだろう。しかし、カタカナの利点も否定はできない。
例えば、「セクハラ」というカタカナ言叶は外来语で、「性的嫌がらせ」という翻訳语があるが、カタカナ言叶のほうがよく使われる。确かに「性的嫌がらせ」という翻訳语は、それがどんな行为かを示すことはできる。しかし、その行为は昔からあったことだ。価値観というものは时代とともに変わる。セクハラというカタカナ言叶は、「今はそういう行为が犯罪だと认められる时代になった」ということを主张しているのではないか。つまり、カタカナを使うことによって、その新しい価値観や考え方を社会的な背景と一绪に示すことができるというわけである。
「パラサイト·シングル」はどうだろうか。成人した後も亲と同居する未婚者のことを最近はこう呼ぶらしい。パラサイトとシングルはそれぞれ英语で「寄生」、「未婚者」を意味する言叶だ。一つ一つは外来语だが、「パラサイト・シングル」と呼ばれる人々は日本の社会の话である。つまり、输入された言叶ではなく、国产のカタカナ言叶である。亲と同居する未婚者は昔からいたはずだ。それなのに、わざわざカタカナ言叶でパラサイトと呼ぶのには、わけがあるはずだ。そこにはやはり価値観の変化、そして社会的な背景があるにちがいない。
亲にしてみれば、いつまでも子供のことがかわいくてしかたがないのだろうが、家赁や食费の心配もなく、家事などの身の回りのことも亲が世话をしてくれるなら、これほど楽な生活はない。その上、晩婚化が进んでいるため、亲と同居する期间がますます长くなる。
大人といえば、自立している人间のことだと考えていたが、成人後も同居を続ける未婚者は大人と言えるのだろうか。自立するとはどういうことなのか。自立が难しい社会、晩婚化が进む社会とはどんな社会なのか、そういったことをこのカタカナ言叶は问いかけているように思う。